昭和54年9月28日 朝の御理解
御理解第93節 「氏子は神の守をして居る者を神と心得て参詣する守が留守なら参詣した氏子は今日は御留守ぢゃと言はうが神の前をあけて置く事は出来ぬ萬事に行届いた信心をせよ常平生心に裃を着つけて居れ人には上下があるが神には上下がない人間は皆同じやうに神の氏子ぢゃによって見下したりきたながったりしてはならぬぞ」
取次者に対する神前奉仕の姿勢と申しますか。そう言うものを教えておられると思う。神前の御用。お取次の御用をさして頂く者を、参って来る者は神と心得て参ってくるとある。
そこでやはり取次者たる者、いよいよもって生神をめざす信心が本気でなされなきゃならん。生神様へならなければ取次が出けんと言うのではなくて、本当に生神をめざすと言う事である。その生神を目指しておる姿勢が尊いのである。
また生神を目指すからには、ここでありますような神前奉仕の信心修行の姿勢と言うものをくずしてはならないと言う事になるわけです。信心、これは取次者、信者、関わりのあるはありません。どちらも同じですけども、信心とは結局生神をめざすと言う事は有り難くならせてもらう事なんです。
そこでね。有り難うならせて頂く。本当に有り難くなりたいと言う一念を燃やさしてもらう。そこでまあ一生懸命の修行をするけれども、その有り難くなれない。有り難くなると言う事は、何かおかげを受けてそして嬉しいと思う。それとは違うわけ。有り難い、おかげを受けて有り難いと言うけれども生神を目指しての信心。 有り難いと言うのは我情を取り我欲を取りね。その我情の取れただけ、我欲の取れただけが有り難いと言うものになっていくと私は思うんですね。その有り難いと思う心に神徳、人徳勿論人間の幸せの条件が足ろうてくるんです。
だから信心とは結局有り難うならせて頂く稽古です。我情我欲の為に信心する人が多いです。自分の思いが成就するように、どうぞ商売が繁盛致しますように、どうぞ病気が治りますようにとね。
ですから、そう言う例えば願うと言う事は、牛馬の事に至るまでとおっしるのですから、実意をもって願えとおっしゃる、その実意をもって願うと言う事がね。その実意がね出て来ないわけ、神様に通うような実意がね。我情を取り我欲を取って行く。そこから有り難いと言う答えが出てくる。その有り難いと言う心でしなければ実意が生まれて来ないね。
そして親から親神様だから、言うならば私共がそれこそ、もう本当にすべての事をね、願わしてもらう。だから問題は信心とは有り難うならせて頂く稽古であると言う事を一つ分からなければいけない。今朝から私は寝ませて頂きながら、まあいろいろな事を思いめぐらすわけですけれども。御造営があのようにして着々と進んでおる。まあ六億からかかると言う事です。これにもしコロッと私が死んだならこりゃ大変神様に対して相すまん事になる。
言うなら借金を残して私が死ぬと言う事になる。そう言う事にでもなったら大変な事だし、神様に御無礼になる事だなと思わせて頂いたらZ『すわり大根がこう寝ておる』ところを頂きました。
そしてそのZ『すわり大根のような提灯をこうたたむところを頂いたんです』。御心眼に、そして今日の御理解ですね。よく申しますね。私共が御用済みになった時が言うならば命の切れ目と言うふうに申しますが。これはだから本当なんですね。ですから信心させて頂く者はここんところを一ついよいよ分からせてもらわにゃならん。 それはね、お役に立ちたい立ちたい一念を燃やすと言うてもね。信心が分かり、有り難うならせて頂く手立てが分からなければ、お役に立ちたいなんて事は心の中に起こって来ないです。そう言う思いが募って来ないですね。 それこそ、あのまあ合楽としては大事業ですが、ああ言うふうに着々として進んでおっても、それこそ横目でチラッと見ているだけで、さあこの六億からかかると言う事であるが、この中のどれだけの例えばね。百分の一か十分の一かでも、言うならばおかげを頂きたいもんだな。お役に立たせたいもんだなと言うような心が湧いて来ないとするならね。これはおかしいですね。
例えばここに千人なら千人の信者が居るが、言うならばその千人の信者で建立されなきゃならんのだから、例えば十人で出来るものであるなら、十分の一位はおかげを頂かな。お役に立ちたいと言う一念、念が起こって来なきゃならんね。そう言う念が起こって来て、それに取り組ませて頂く限りですね。例えばんなら、中途半端な事でお国替えすると言ったような事はまずはないでしょう。
これはまあ私ね。あの提灯をたたむと言う事は、たたまれると言う事ね。だから座り大根と言うのは、まあこれは取次者の事でしょうね。座り大根とお道の教師は座りの良いのを良とすると言われるも、それこそ尻火傷をしたようにね。もう座っとく事がじゅつのうしてじゅつのうして、こたえんと言うような事では、お道の教師は勤まらん。
それこそ畳半畳の中に座る事に一つの執念のようなものが、ここに根が生えたように。いやここに座っておる事が有り難いと言うような神前奉仕が段々と出来るように修行するのが、お道の教師だと私は思うんですね。
そう言う御用に本気でお使い回し頂きたい。為には今日この御理解にあるようにね。兎角身を慎ませてもらうね。もう本当に神前奉仕に専念するなら専念すると言う事がね。有り難いと言う心が生まれて来なければ出来るこっちゃないて。
御祈念をするのもここでお取次させて頂くのもね。これがじゅつのうしてじゅつのうしてと言う、過程においてはありましょうけれどもね。三代金光様がおっしゃるように初めの間は辛うて辛うてよう泣いたとおっしゃるからじゅっないでしょうけれども。それを貫かせてもらう信心が必要である。
そこから思う事もなくなりほしいものもなくなる、いわゆる我情我欲もなくなると言う事。だから、そこから有り難うて有り難うてと言う答えが出ておられます。だからこれはなら取次者だけの事ぢゃない。私共が有り難くなる事が信心だと言うふうに分かり頂かしてもろたら、先ずはその自分の我情我欲を取らなきゃいけない。 商売繁盛のおかげを頂きますようにと言う事は、これは我情ぢゃないね。我情と言うのはどこまでも我がついておる我情である。商売人が商売繁盛を願わん筈がない。願うのが当然。けれども、それが我情であってはならない、我欲であってはならない。
そこにお取次の働き、お取次をお願いをする。それこそ願う事は、どう言う事でも牛馬の事に至るまで願うがよい。願うたら、お任せをすると言う事なんだ。その願うたらお任せをすると言う事が我情がない事であり、我欲がない事である。
もう、それから先はあなたまかせである。そのおかげの受け止めれる、おかげを頂く事の為に、言わばまた本気でね。厳密に我情を兎に角ね。我情を放す言う位、本当あの素晴らしい事はないです。 例えばあの子供達でもね。親の目から見て、言わば不憫にも思うがまたは、めだるい事もあるわけです。だからね、子供がこうあってくれると良いけれどもと、なら私で言うなら御信者がです。こうあってくれると良いけれどもと思う心が我情です。
だから、そのこうあってくれないと心がイライラしたり腹が立ったりするわけです。淋しくなったらするわけです。だからね、淋しかったり、腹が立ったりイライラしたりと言うのは我情があるからです。神様に任せ切ってないからね。どう言う事でも人間痛い痒いの事を願っていい、願わなならん、また願わなければ実はおられんのだ。それは決して悪い事ではない。子供が親にすがる、願うのだから。言うなら母親のひざにすがって行ってお乳を求めるようなもんだから。
けれどもね。お取次を頂いてお願いをしたら任せなきゃいけない。そこに我情が取れていく。願うたけれども願い通りにならん、そんなら自分自身を極めて行かなきゃならん。まあだ受け物が出来てないのだ。生き方が間違ってるのだ。我情我欲でつっぱっとるからだと言うふうに我情を取る事に精進していく。と言う我欲を取る事に精進していくと言うようなおかげを頂いてきて有り難うなってくる。有り難うて有り難うてとなって来る時にです。初めてお役に立ちたいと言う心が生まれて来る。またそう言う心が生まれて来る。お役に立ちたいでなからなければ成就しない。
有り難くなりたい。これは教師も信者も同じ事でなからねばならない。お道の信心はどこまでもね。偉くなる為のものでもなからなければ、賢うなる為のものでもない。有り難くなる事の為にお道の信心はあるんだ。ならお道の信心を有り難くなる事の為に頂く為には、どう言う生き方にならなければならないか。
昨日高橋さんのところのお店がお休みの時に必ず奥さんが参って見えます。ご承知のように高橋さんはもう長年の間、福岡から日参をして見えます。奥さんはお店をお家を守られるから、そんなわけにはまいりません。
そこで最近は日参したつもりでと言う信心を家でしておると、昨日も言うておられる。ちゃんとお初穂お供えして日参しておるつもりで家で御祈念をされる。そしてお休みの時に、参った時に、朝からもうそれこそ心おきなく参ってこられる。
この頃はもう的確に神様からお知らせを頂かれるようになった。勿論、奥さんの信心、結局御主人の信心が、そのような表われになってくるのだと思いますけれども。昨日ここでお届けをされます事に、親先生どんなに考えてもおかげを頂くと言う事の為にはまず、私自身が力を受ける以外にはない。もうしきりに、力を受けなければ力を受けなければと心から、こう何かがつきあがってくるように思いますとこう言われる。
信心はそれだと思う。これは有り難くなりたい、有り難くなりたいと言う事と同じだと思うです。信心頂いたら、おかげを受けたいならば、受けたい受けたいぢゃなくて、おかげの受けられる力を受けるより他にないと言う、そこに日参を始められた。
いわゆる、御初穂にも書いてあった。日参的信心と書いてある御初穂にね。日参は出来ないけども、日参をしてるつもりでの信心を、まあ家庭でさして頂いとると、こう言うのである。そこで郁枝さん力を頂きたい。力が頂きたいと言うてもね。それこそやせきれておって、如何に頑張ったところで力はつきゃせんよとね。相撲取りのやせきれたのはおらんでしょうが。こんなに大きい。人の倍位大きい。それでいて力の一生懸命に出る稽古をする。技の稽古をするように信心もそうだよ。
もう本当にしきりに思う事は、最近そう思う事はもう力を受けるより他にないと思いますとこう言う。そこでなら、その力を受ける事の為にです。ねそれこそ自分の心がいよいよ健全になる願いをしなければいけない。何を食べても当たらない。何を食べても皆が血になり肉になりと言う頂き方をしなければならんたいねて、言うて話した事でした。
皆さんそうです。おかげを頂きたいなら、もう本当に力を受けるより他にないなあと思たらですね。言うならもう改まらずにおれない。研かずにはおれないね。そして力を頂く為にはです。何を食べてもそれが全部血に肉になるようにです。これは好かん、これは良いね。今日の御理解の中にありますようにね。人を言うならば汚がったり見下したりしてはならない。みんな神の氏子としての見方が出来るような頂き方が出来なければいけない。
自分の好いたっだけにはこうする。自分の好かんとには、それをはねのかすような事をする。それでは心はいつまでたっても豊かにもならない。力もつかない。自分の前に表われてくる一切の物を事柄を人間関係をです。それをなら神様頂きますと言う心で頂かなきゃいけない。そこにいやが上にも心は豊かに大きうなってくる。
それを一生懸命のその技を覚えていく力のついて、言うならばもう一切が栄養になってくるわけ。養素拝山であるね。二階の新二階にかかっておる額が養素拝山。養う素、それは拝山、山を拝む以外はない。山と言う事は私共の上に起きてくるいろんな苦労、修行と言う事である。その修行を拝んで頂くと言う事以外はない。そこに限りない。言うならば力の養素、お徳の養素と言うものが養われてくる、鍛われてくるわけです。
これはもう郁枝さん本当ばい。もう本当にあんた素晴らしかばい、力を受けるより他にないと気付くところからです。なら今迄の物の見方、考え方、頂き方が変わってくる。そこに力は自ずとついてくる。その力を頂いておかげを受けると言う生き方ね。そして昨日の御理解ぢゃないけれども力を受けた、おかげを受けた。はあこれが極楽であろうかと言うおかげを頂いたら、それは常持の喜びであるから、その喜びを常に持ち続けるだけぢゃなくて、その喜びを合楽に向けなければいけないね。
そこに神様との言うならば合楽しあえれる世界があり、そこから限りなく生み成されて来るおかげ、力を頂いてから受けた、受けた力で合楽に向うね。合楽に向うその力がです。言うならば神様と私共の合楽する中から生み成されてくるおかげがもう、これは限りがないもの無尽蔵のものね。そう言う事になってきたら、それこそお役に立ちたいの一念もまた燃えてくると言う事になりますね。
今日私、言うならば本当にお役に立ちたいと言う一念をです。ここで私が燃やすとするならば、そんなにいつもかつも寝とってはいけません。寝とったらたたまれると言う事。座り大根が寝とるとぢゃけん。そげんするとたたまれる。だからたたまれたくないならば、私がここで本気で命をかけてここに精進をする。そこに御用のすむまでは、それこそ御用済みになるまでは、神様が十分にお使いを下さると言う事になりましょうがね。
そう言う事ならば、例えばそれはお道の教師だけ、取次者だけの事ではない。あなた方の場合でもそうでしょうが。おかげを受けたい、そんなら高橋さんぢゃないけれども、力をもう本当にしきりに力を受けなければだめ、受けなければと言う事を思うと言うのです。 そこから日参教聴が始まった。そしてその心がいよいよ健全にそれこそどう言う苦いものであろうが、臭いものであろうがね。それを有り難く頂く事になってくるからね。それが千振代わりもなればせ、ニンニク代わりにもなって身体はいよいよ健全、心は健全健康と言う事になってくる。
何を受けても頂いてもビクともせんだけの心が鍛われてくる。そう言う心をもっておかげを受ける。その受けた心で合楽へ向う。そう言う信心を一つ本気で焦点をそこに置き換えての信心でありたいと思うですね。「どうぞ」